收藏

ルイヴィトンタイガジッピー編集

 それを聞いたわたしはふと気になって、あとで聡に訊きました。弟が溺れかけたのは、真緒のしわざではないのかい、と。しかし、聡は否定しました。真緒はあのときにはまだ居なかった、というんです。真緒が現われるようになったのは、義母の虐待が始まってからなので、風呂場での失敗は、けっして故意にやったことではなく、ほんとうに真由美の不注意のせいだった、と確言しました。  やがて真由美は中学に入ります。暗い顔をして学校へゆくので、たちまちいじめの対象になったようです。中学時代の友達の思い出というのが真由美にはほとんどないんですが、それはこの時期の大部分の記憶をブルーが引き受けていたからでした。  とにかくそんな具合に、ブルーは、つらい記憶ばかりを背負っていました。その記憶の一部が、真由美の意識に流れ込んで、本人には説明のつかないフラッシュバックを生じさせていたわけです。  わたしは、ブルーが打ち明ける話をすべてビデオに録画しました。そして、まず由起に見せました。由起があまり感情をあらわさない人格であることは何度か言ったと思いますが、このビデオを見せたときは、すこし目を赤くしていました。これを真由美に見せたいのだが、かまわないかと訊くと、低い声で、〈ええ、おねがいします。なぜフラッシュバックが起きるのかをあの子がよく理解すれば、もうそういうものに悩まされなくなるかもしれません〉と承諾しました。  ビデオを見た真由美は、ブルーが可哀相《かわいそう》だといって涙を流しました。それは自分自身の経験なのだという実感は、まだ持てないようでしたが、それでも、ブルーの記憶を自分もいっしょに引き受けなければならないという覚悟は固めたようでした。そのせいか、フラッシュバックは一時おさまりました。  ですが、それからふた月ほどしたころ、また別のフラッシュバックが真由美を襲いはじめたんです。恐怖や苦痛のフラッシュバックではなく——ま、それもすこしは混じっていたようですが——何か胸苦《むなぐる》しいような、死んでしまいたいような、どうしていいか判らないような厭《いや》な気分が、突然、全身を襲って、その場にうずくまってしまう、というものでした。  例によって聡に相談しました。するとかれは、〈ネムが目を覚ましたんです〉と言いました。七歳の姿のまま、これまでじっと眠りつづけていたという人格です。その子が目を覚ましたので、真由美にフラッシュバックが起きているのだ、という説明でした。  そこで、また催眠をつかいました。催眠で、ネムを呼び出そうとしました。しかし、これがなかなかうまくいかず、聡と由起にも手伝ってもらいました。ふたりに頼んで、ネムを表に送り出してもらいました。  出てきたネムは、穴から顔を出した小動物のように、不安げに診療室を見まわして、それからわたしに気づくと、ソファからおりて部屋の隅まで逃げ、うずくまって動かなくなりました。わたしが声をかけると、ビクッと体を震わせて、垂れた髪の隙間《すきま》から、怖々《こわごわ》とこちらを見ました。わたしに対してこんなに怯《おび》える人格は初めてでした。話しかけても、何も答えませんでした。そのうち、うずくまったまま目を閉じて、眠るように奥へ引っ込んでしまいました。  最初の日は、だから何もできませんでした。聡は、〈あせらずに、時間をかけてネムに安心感を与えるしかないと思います〉と助言してくれました。  以後、面接のたびに、催眠をつかって短い時間だけネムを呼び出し、ジュースやお菓子をそばに置いてやったり、娘に買ってきてもらったアニメ番組の歌のテープをいっしょに聴《き》いたり、あるいは、〈いま目の前にいるおじさんは、あなたを守ってくれる、いいおじさんだよ〉ということを、由起に、内側から何度も語りかけてもらったり、そんな具合にして少しずつネムの気持ちをほぐしてゆきました。  ひと月ほどすると、ネムはわたしの言葉に返事をするようになりました。〈そのジュース、おいしいかい?〉〈うん、おいしい〉〈きょうは何の歌を聴く?〉〈ハイジの歌がいい〉といったふうな、たわいのないやりとりをしているうちに、あるとき、ネムのほうからこう訊いたんです。〈ヒロシおじちゃんは、きょうはいないの?〉  ヒロシおじちゃん、というのが誰なのかは判りませんでしたが、〈居ないよ〉と答えると、ほっとしたような顔をしました。 〈ヒロシおじちゃんが居ると、いやなのかい?〉と尋ねてみると、〈うん〉と小声でうなずきました。 〈なぜ?〉と訊いたら、〈おじちゃんがなめると、くさくなるから〉と言ったので、わたしは厭《いや》な予感がしましたが、〈おじちゃんが何をなめるの?〉とさらに問うと、うつむいてソファの縁《へり》を撫でながら、〈顔〉と答えました。 〈きみの顔をなめるの?〉〈手も〉〈手もなめるの?〉〈それから、ここも〉と、自分の股に手をやりました。〈おじちゃんに抱っこされると、ここ、痛くなるの。だから、こわいの〉とも言いました。  そのあとで聡を呼び出して、〈ヒロシおじちゃん〉とは誰かと訊くと、真由美が七歳のときの夏休みに、祖父母の家に帰省してきた大学生の叔父《おじ》だと教えてくれました。  その大学生から真由美が性的虐待をうけていたことが、ネムの言葉によって判明したわけです。
表示ラベル: